漱石と隻腕の学生・続続

最終更新時間:2019年03月09日 17時42分57秒

 「漱石山脈 現代日本の礎を築いた『師弟愛』」を読了(以下「漱石山脈」)。
 この本の中で、「漱石と隻腕の学生」で取り上げた、漱石が東京帝国大学で講師をしていた時に起きた「懐手事件」について触れられていた。

 私見によれば、「懐手事件」には、その場に居合わせた二人がそれぞれ唱えている、森田草平説、金子健二説の二つの説がある。
 森田説は、事件の発生日は明治38年11月10日ごろで、隻腕の学生(後年、魚住惇吉だということが明らかになる)に対してそうと知らずに小言を言ってしまった漱石が、恐縮して「僕も毎日無い智慧を絞つて講義をしてゐるんだから、君もたまには無い腕でも出したらよからう」という一言を漏らした、というもの。
 対して金子説では、事件が起きたのは森田説より一年ほど前の明治37年12月1日。懐手の学生に注意した漱石は、その学生が隻腕であることを知ると、何も言わずそのまま教室から出て行ったことになっている。
 金子説は、それが記された金子の著書「人間漱石」の、件の学生の着物の色柄や表情など、細部に至る詳細な記載が信憑性の高さを感じさせ、そのため、漱石の一言は本当はなかった、後年誰かによって創作されたものだ、という話の根拠となっている。
 しかしながら、漱石自身が明治38年11月13日に野村伝四に出した私信で「近頃失敬の至」として事件に触れ、最後の一言も記している。事件から一年以上経っている私信でそれを「近頃」のことだとするのか、という疑問から、この葉書は金子説の信憑性を揺るがすものとなっている。
 結局、森田説、金子説のいずれが本当のことなのかわからない、というのが、「漱石と隻腕の学生」に記した結論であった。

 「漱石山脈」で、筆者の長尾剛は、森田説と金子説の折衷案とも言える説を唱えている(ように私には思える)。
 長尾は、基本的には金子説に沿いながらも、

魚住の席と金子の席が離れていたため漱石が無言だったように見えただけであろう

として、最後の一言はあった、としている。
 そして、漱石が事件から一年後に出した私信で、事件が「近頃」のことだとしたのは、

魚住の件は、少なくとも一年近く、漱石にとって生々しい「恥ずべき記憶」として続いていたようである。

との理由だと解釈している。
 まあ、この辺がうまい落とし所かな、と私も思う(声が聞こえないくらい離れた席で、なぜ着物の色柄や学生の表情までわかったのか、という疑問は残るが)。
 事件に関して、このような「それらしい解釈」がなされた書物が世に出た、ということは、なんだか喜ばしい、と自分勝手に思う次第。