漱石と隻腕の学生・続
非難
先に「漱石と隻腕の学生」を書くにあたって、図書館でしらべものをしたときに見つけた「夏目漱石研究資料集成」(全10巻+別巻1)を、気が向いたときに1巻ずつ借り出しては、ぼちぼちと読んでいる。これは、明治26年から昭和20年にかけて新聞や雑誌に掲載された、漱石に関する記事や論文などをまとめたもの。
千駄木の夏目家の表札に誰かが猫の絵を落書きすると、翌朝もう一匹書き加えられていたというどうでもいいゴシップとか、江口渙が「モデル小説」と題した文章の中で、森田草平や阿部次郎や鏡子夫人のことをのきなみボロクソに書いてたりとか、なかなかに面白いが、やはり気になるのは懐手事件のこと。
まだ11巻すべてに目を通した訳ではないが、それでもこの事件についての文章はいくつも収められていて、いろんな人がいろんなことを書いていることがわかる。
最初に見つけたのは、第1巻に収録されている、『読売新聞』明治40年11月17日掲載の白雲子という署名のある記事「漱石の人物と其作物」というもの。懐手事件が起こったのは明治37年か38年のことであり、この記事はかなり早い時期のものである。なお、引用文中のくの字点を使わないようにするなど、一部、仮名遣いを改めた(他の引用部も同様)。
▲先ず漱石の人物から評する。一口に云へば彼は変人である。夫子自身は如何思つて居るか知らんが、世間は大體此に一致する。彼の大学教授として英文学を講ずるや、学生のうちに懐手をし乍ら講義を聴いて居たものがあつた。之を見ると先生つかつかと講壇を降りて、其の無禮を咎め強ひて手を出させやうとしたが、其生頑として応ぜず、雙方睨合のまゝ別れて講壇に登ると、他の学生某生の為めに辯じて、其の工科に在つて右手を傷け、轉じて文科に来れるものなることを云ふと、漱石きまり悪げに顔を赧めたが暫くすると、「自分も無い頭脳を絞つて小説を書いているから、君も無い腕位出して見せるが可い」と、かゝる場合這麼言葉は些風変わりの人物でなければ云へ無いことである。喧嘩に負けた犬の逃げがけに吠えると同じ理合か如何かは、読者の判定に任せる。此は単に彼の変人たる一例を挙げたに過ぎない。
この後もこの記事はひたすら漱石への誹謗中傷悪口雑言が続くわけだが、その一節に「(大学で教鞭を執っていたにもかかわらず)其のうち『猫』を顕はして名を出すと、東京朝日が高金を出して傭ひに来る。二つ返事で新聞屋になつて了ふ」とある。つまり、読売も勧誘運動をしていたにもかかわらず、漱石が朝日に入社してしまった、そのことに対する鬱憤晴らしの記事なのである。
読売の漱石に対する悪意を割り引いても、漱石のこの言葉が、「些風変わりの人物でなければ云へ無いこと」であり、「喧嘩に負けた犬の逃げがけに吠えると同じ」だと世間に受け取られることも十分あり得るということが、この記事からは読み取れる。こちらで紹介した「日本文壇史 9 日露戦後の新文学」でも、世間の人々に「『夏目といふ男はひどい奴だ。人の子の不具を材料にして洒落を吐く』と言つて非難」されたとされている。
擁護
これに対して、第3巻収録の、『新思潮』第2巻第2号(大正6年3月)の岡栄一郎「漱石先生の追憶 [3] 夏目先生を偲ぶ」では、この逸話の世間での受け取られ方に対する不満が以下のように述べられている。
先生の逸話として傳はつてゐる中に、随分変な解釋を下したゐるのがあります。朝日新聞にも出てゐましたが、先生がまだ大学で講義をしてゐられた時、片腕を懐手にしてゐる学生に向つて、手をお出しなさいと云はれましたが、後でその人が片腕のないとふをお聞きになつて、「無い袖は振られぬといふ事があるが、己は出来ない講義を無理にしてゐるのだから、あの人だつて無い腕を出したつていゝちやあないか」といふやうな事を御しやつたのを、単に言葉の洒落とばかり解釋してしまつてゐるのは、甚だ面白くない事に思ひます。この先生のお話の中には何とも云へない悲痛な心持ちが出てゐるのに気が附かないのでせうか。非常に気の毒な事をしたと、平たく云つてしまふより、どれだけ喜しい心持ちが出てゐるのか分らないのでせうか。これは大変遺憾な事だと思ひます。誰もその事をお書きにならないから、甚だ失禮ながら私が辯じたくなつたのです。この話なぞが本当のヒウモアといふものだらうと思ひます。
さらに、ほぼ同じ趣旨でより詳細な分析というか解説がなされた小宮豊隆の文章「漱石先生のてれ隠し」(『大阪朝日新聞』昭和9年6月12日)が第6巻に収められている。少し長いが以下に引用する。
漱石先生がまだ大学で講義をしてゐた時分、ある日先生が、自分の講義を懐手をして聴いてゐる学生を、ひどく叱りつけたことがあつた。然るにその学生は、実は片腕のない学生で、懐手をするもしないもなく、さうしてゐるより仕方のない学生であつた。はたの学生が、そのことを先生に注意した。すると先生は、僕はない智恵を絞つて講義をしてゐる。君だつて、ない腕ぐらゐ出して聴いたつていゝぢやないか、といつた。 ―これは先生の逸話として、先生歿後だいぶ有名になつた話である。大抵な人はこれを知つてゐるのではないかと思ふ。しかしこの話には、まだ先があつた。それを私もついこの頃になつて聴いた。それは、その、手がないのだといふことを、はたから先生に注意した学生が、先生のこの言葉を聴いて、夏目さんといふ人も随分ひどい人だと感じ、それを外の人にいつたといふことである。この学生は、もうだいぶ前に死んでしまつたが、私よりも一年上で私もよく知つてゐる学生である。正直で、おとなしくて、それでなかなか頑強なところもあつて、好い人だつた。その人が、先生のことをさういふ風に感じたまゝ、死んでしまつたのだといふのだから、私は何か情けないやうな心持になつた。一體どこをひどいと感じたものだらうと、それを教へてくれた友人に訊き直すと、いくらてれ隠しをいふにしても、これはあんまりひどすぎるといふのが、当人の主意らしかつた、といふ返事であつた。これを聴いて、私は更に遣る瀬がないやうな心持になつた。 自分の仕事に眞面目で忠実で、しかも禮儀の正しかつた先生は、自分の講義を懐手をして聴く、学生のだらけ切つた態度を、恐らく憎むべき態度だと思つたに違ひない。然し先生は不断教場で、それほど小言をいふ先生ではなかつた。この場合でも先生は、暫らくの間は、その不愉快を我慢して、相手が懐手をやめることを待つてゐたものと思はれる。しかし相手は手がないのだから、元より懐手をやめやうはなかつた。さういふことゝは少しも知らず、既に一つの方向に傾斜し始めてゐた先生の心が、いつまでたつてもその懐手をやめない学生を見て、たうとう爆発し終にその学生を叱りつける行動を取らせるに至つたことはまつたくやむを得ないことであつた。 然しそれとゝもに、純粋で愛に充ちてゐた先生が、その学生には手がないのだと聴いて、卒然として自分の行動を悔い、相手に対して実に済まない事をしたと思つたに違ひないことも、また想像に余りあることである。―それならば先生は、この際飜然として、相手に謝罪するがいゝではないかといふのが、恐らくそのはたの学生の意見であつたらうと思はれる。然し先生にはこの際、是れが出来なかつた。なぜなら、この時先生の心の中には、相手に対して気の毒に思ひ、実に済まなく思ふ心の傾斜とゝもに、それとは恰度反対な、相手を不都合に思ひ、相手を不愉快に思ふ、他の心の傾斜が、既に相手を叱りつけなければゐられなかつたほどの、急勾配をもつて、動いてゐたからである。先生はきつと、淡泊に相手に謝罪したかつたのだらうと思ふ。然し先生の内面をいへば、この時先生は、先生の中で猛烈な勢力をもつて衝突したこの二つの急傾斜のために二つのものが折衝され、決算され、協商が纏まるのでない限り、一つの傾斜だけに身を委ねることの出来ない、特殊な状態に置かれてゐたのである。然もこの際先生が、相手に対して何かいはなければゐられなかつた―黙つてゐることが出来なかつたのだとすれば先生はこの二つの心の傾斜のどちらからも身を飜して、無理にも第三の立場をとるより外に、道はなかつたのである。それだから先生は、相手を無視するとともに、自分自身をも無視し、世にも不合理な、無理なことをいふことによつて、自分も笑ひ、相手にも笑つてもらはうとしたものに違ひないと思はれる。 ―この笑ひには、かなり複雑な心持があつた。然もこの笑ひには、深い謝罪の、デリケートな和解の、私な申し出しがあつた。 然しこの申し出しは、多くの人によつて理解されないやうに見える。先生に注意した学生の純粋は或はこの笑ひの故に、眞面目なものを不眞面目に取り扱ふものとして、先生をひどい人だと感じたものかもしれない。然し、多少でも先生の人間に触れたことのある人であるならば、―先生の人間に触れるまでもなく、往々にして人は最も不合理なこと、もしくはその場合に最もふさはしくないことをいふことによつて、最も濃厚な情愛を相手に注ぎ出すものであるといふことを心得てゐる人であるならばこの際ほど先生が眞面目に、相手に済まないことをしたといふ感情を吐露したことはないといふやうなことを、すぐにも感じとることが出来るはずであると思はれる。勿論このところには、強ひていへば、先生の江戸つ子の臭ひや、俳人の臭ひなどが、出てゐなくもない、ともいへるかも知れない。しかしたとひさういふ臭ひがあつたとしても、それは、先生がひどい人であるといふことゝは、およそ關係のないことだつたのである。(終)
なお、関川夏央と谷口ジローの「『坊っちゃん』の時代」では、この注意した学生を鈴木三重吉だとしているが、鈴木の没年は昭和11年であり、小宮が昭和9年に書いた上記の文章で「もうだいぶ前に死んでしまつた」とする人物であるはずがない。よって、少なくとも小宮が「注意した学生」だとしているのは鈴木三重吉ではない。
隻腕の学生が魚住惇吉だということははっきりしているわけだが、ではこの注意した学生は一体誰なのだろうか?
変形
「夏目漱石研究資料集成」の第3巻には、漱石追悼のため大正6年1月に発行された『新小説』臨時号掲載の文章が多数収録されているが、その中で懐手事件に触れた文章として、東京朝日新聞の雑報記事、野上豊一郎、馬場孤蝶のものがある。
東京朝日新聞より転載したとされる無署名の記事「漱石先生の逸話」では、隻腕であることを、隣席の学生ではなく、その学生自身が漱石に告げたことになっているという点が少々変則的ではあるが、事件を簡潔に伝えるものになっている。
こちらでも書いたが、「大學教授時代(夏目漱石氏の一生 [11])」で野上豊一郎が伝えるところでは、隻腕だと聴いた後の漱石は黙ったままであり、「手を出せ」というような言葉を発していない(少なくともこの言葉は記されていない)。
「漱石氏に關する感想及び印象 [4] 追憶の断片」で馬場孤蝶は、又聞きであるとしながらも事件の顛末を詳しく記しているが、そこでは、注意しても学生は黙したまま手を出さないので仕方なく漱石はそのまま講義を終える。後日、別の学生が漱石宅までやってきて件の学生が隻腕であることを告げ、世に無い袖は振れぬと言ううんぬんと警句じみたことを言ったため、漱石が「無い手を出してもよかろう」と返した、ということになっている。
さらに変形されたものとしては、第9巻に、昭和13年2月8日の『都新聞』掲載の無署名の記事「けふの人 手の無い学生の話 我身につまされた神田伯龍」がある。講談師の神田伯龍へのインタビューの中で、彼が前夜読んでいた随筆物に懐手事件が出てきたとして、それが以下のように引かれる。
―ある室で講義をしてをられると、一人の学生が懐手をして講義を聞いてゐる。ノートもせずにぼんやりしてゐる。之を見た漱石先生が、ノートもせずに講義を聞くとは何事か、懐手を止めなさい、と怒つて云はれた、それでも件の学生は黙つてゐる、そして手を出さぬ。 すると、傍の学生が、この人は手がないのですと代つて云つた。先生益々怒つて、片方の手がないなら片方の手を出すのが当然ぢやないか、といふと、又傍の学生が、この人は兩手がないのだと答へたので、 先生も之には困つて、俺も無い頭から知恵をしぼつて出してゐるのだから、君もなんとかして手を出したらいゝだらうと嘆いたさうですが……。
ここではなんと件の学生は片手ではなく両手がないことになっているのである。
ちなみに神田伯龍も右手が不自由で、弁当がうまくつかえないので片膝を立てていたら師匠に殴られた、そのあと事情を知った師匠が恐縮してこぼれた飯粒を一粒一粒拾って弁当箱に入れてくれた、とこの記事は続く。
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