攘夷の近現代史

最終更新時間:2010年11月03日 16時15分14秒

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 少し前に、加藤陽子「戦争の日本近現代史」を読み終えた。この本の第二講「軍備拡張論はいかにして受け入れられたか」に、以下のような記述がある。

 一八六九(明治二)年二月の岩倉具視意見書「外交之事」からは、当時、議定兼補相であった岩倉が、おおよそ次のような判断をしていたことがわかります。――朝廷に政権が移れば天下の人は、必ず攘夷の令が下ると考えただろう。しかし、どうしたことか、政府は、イギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの公使を参朝させている。これでは人人が、朝廷が先に攘夷を主張したのは「畢竟幕府を倒さんが為の謀略なり」とみてもしかたがないではないか。今日、政府がなぜ外国と交際を開かざるをえないのか、その理由を了解する者は天下にほとんどいないはずである。これは問題ではないか――。

 加藤はこの「問題」に対する答えとして、吉野作造の説を紹介している。それは、単に幕府を倒すための口実として攘夷を唱えていただけだったのではないかという非難を受け、窮地に立たされた政府は、国際情勢が諸外国と和親の方向に進むしか選択の余地のないものだという、みずからの置かれている状況を国民に率直に披露したというもの。それによって、明治初年の人々があれほど急に近代的政治意識を身につけられたのだ、と吉野は述べている。
 結局のところ、彼我の国力、軍事力の差が大きすぎて、実際問題、攘夷など不可能だった、というのが真実なのであろう。
 とはいいながら、確かに、攘夷から開国へという国是の大転換が、当時の人々にどのように受容されていったのかが気になった。
 

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 手前勝手な解釈だが、町田明広「攘夷の幕末史」に、そのあたりのことが書いてあったように思う。以下は多分に私見がまじった抜粋とまとめ。
 帯に「坂本龍馬も、勝海舟も、みんな『攘夷派』だった」とあるように、町田によれば、幕末(同書で主に扱う文久期)には、例外なく日本人すべてが尊皇であり、攘夷であった。その思想の淵源は古代中国の華夷思想にあり、これは簡単に言えば中国が一番優れているという考え方で、六世紀以降の隋・唐の時代にはすでに東アジア全体に浸透し、明・清の時代に最盛期を迎えた。日本は中国から、他の文物同様にこの華夷思想の枠組みを輸入しながら、中国中心の華夷体制から脱却し、一番優れているのは中国ではなく日本であるとする、日本中心の華夷思想を抱くようになる。遣隋使、遣唐使の昔には、中国に対して日本が朝貢していたその体制から、中国からみて日本が辺境にあるという地の利もあって抜け出し、鎖国して他国との交渉を絶った上で、日本に対して琉球、朝鮮を朝貢させる(朝鮮については本来「通信使」なのだが、幕府は国内向けには琉球同様に「来貢使」として取り扱った)ことで日本型冊封体制を作りだし、「東夷の小帝国」を形成したのである。いわば「お山の大将」の状態が江戸時代ずっと続いたわけで、その間に「日本は世界の中心である」「外人は夷狄禽獣である」という攘夷思想が育まれていった。こうして幕末の頃には、日本人全員が攘夷主義者になっていたというわけである。
 全員が攘夷主義者であれば、攘夷か否かという点での対立はない。町田によれば、攘夷は攘夷でも「大攘夷」と「小攘夷」という思想の違いに、対立軸はあった。以下、同書の序章「幕末のイメージと攘夷」から引用する。

「大攘夷」とは、現状の武備では、西欧列強と戦えば必ず負けるとの認識に立ち、無謀な攘夷を否定する考えだった。現行の通商条約を容認し、その利益によってじゅうぶんな武備を調えた暁に、海外侵出をおこなうと主張したのだ。公武合体派と呼ばれた人たちは、ここに属した。井伊をはじめ、龍馬が批判した幕閣もこの考えであり、その本質は、やはり攘夷であった。
 一方で「小攘夷」とは、勅許を得ずに締結された現行の通商条約を、即時に、しかも一方的に破棄して、それによる対外戦争も辞さないとする破約攘夷を主張するものだった。しかも、「小攘夷」を唱える人びとは実力行使をいとわず、しきりに外国人殺傷や外国船砲撃といった過激な行為をくりかえした。尊王攘夷派と呼ばれた人たちは、ここに属する。すなわち、当時の政争は「大攘夷」vs.「小攘夷」の構図なのである。

 つまり、幕末の政争は「大攘夷」と「小攘夷」という攘夷主義者同士の抗争だった。状況の変転とともに、結局最後には全員が「大攘夷」に転向しただけ(対立の重心が「倒幕」「佐幕」という単なる権力闘争へと移っていった)。国是が攘夷から開国へと転換されたわけではなく、「小攘夷」から「大攘夷」へと変更されただけであって、攘夷主義は明治に至っても継続していたのである。以下、やはり序章から引用する。

 こうして幕府は、朝鮮・琉球を朝貢国と規定し、日本型冊封体制を完成したが、本来、朝鮮とは独立した国家同士であり、現実との大きな隔たりが見られる。これが幕末明治期の征韓論を形成する起点となり、そして、この朝鮮をめぐるロシアとの最終的な覇権争いが、日露戦争であったのだ。

 なおも攘夷は続く。以下、あとがきから。

 昭和四十年代に小学生であった私は、いまから十五年ほど前に亡くなった、満州に出征していた祖父の戦争体験談を聞くことが好きであった。その大半は、引き揚げにまつわる苦労話であったが、筆者にとっては時折祖父が口を滑らす、日本兵の耳をふさぎたくなる行為に意識が集中していた。
 しかし、そんな私の雰囲気を察してか、「日本人は、中国人や朝鮮人に本当にひどいことをした。もう、これ以上は話さない」というフレーズで話は打ち切られるのが常だった。私は「本当に勝てると思っていたのか?」というような質問を繰り返したが、「薄薄はどうかなと、思わないこともなかったが、神州が最後には勝つであろうと信じていた。それにしても、陛下のために攘夷が叶わなかったことが残念である」と祖父は悔しがっていた。
 当時、NHK大河ドラマ「勝海舟」で幕末に目覚めはじめていた筆者にとって、祖父が使う「攘夷」という言葉は鮮烈であり、驚きであった。それ以来、幕末の攘夷がなぜ太平洋戦争まで影を落としていたのかが、大きなテーマになっている。