卑弥呼の引退作

AV黄金列伝 (文庫ぎんが堂)
イースト・プレス
東良 美季

 東良美季「AV黄金列伝」を読了。この本に、先日読み終えた「新・AV時代 悩ましき人々の群れ」にも出てきた、AV女優「卑弥呼」の名前が登場する。と言っても、松本コンチータの章の冒頭、彼女の対極の例として、枕に振られている挿話に出てくるだけ。以下にその部分を引用する。なお、初出は雑誌「ビデオ・ザ・ワールド」1995年1月号。

 数ヶ月前、卑弥呼というAV女優の引退作を観た。すべての撮影が終わり、打ち上げらしき席が映される。そこで彼女はカメラに向かい、にっこりと微笑んでこう言うのだ。
「私は今日は女優を引退して、この世界のヒトではなくなります。だから道で出会っても声をかけないでください」
 こういう台詞を聞くのは、いささか複雑な気分である。彼女のファンの男の子達は、卑弥呼のビデオをレンタルしては一夜の恋人にしていた少年達は、いったいどう思うのだろう、と。
 AV女優である、あるいはAV女優であったというのはそんなに恥ずかしい事なのだろうか? もちろん、AVに出ている、あるいはAVに出ていたということだけで社会から理不尽な差別を受けるという事実は確かに、ある。しかし、それとこれとは話は別だ。そういった社会の成り立ちがいびつなのだと主張する権利はあっても、差別されることを恥ずかしく思うことはない。違うだろうか?
 もちろん20才そこそこの女の子達に向かって、ビデオの中でセックスしたということを恥ずかしく思うなというのは酷な話である。特にダイヤモンド映像のスターとして活躍しながら、3000万円という莫大なギャランティを騙し取られたという卑弥呼のような女の子にとってみればなおさらだ。しかし、AVに関わっている我々が、ひとたび自ら自分の存在を卑下してしまえば、我々は理不尽な差別を成り立たせている既成の社会に対して『NO!』と言う権利を失ってしまう。間違っているだろうか?
 確かに既成の社会は常に、まるで臭いものに蓋をするようにポルノやセックスを覆い隠そうとする。AVに関わるということ──つまりポルノグラフィーに関わるということは、ある意味でそういった既成の生き方に異議申し立てをすることである。つまりそれは、うっかりすると不意に背中を突かれるような社会のエッジを歩くということかもしれない。しかし、と僕は思うのだ。それは逆に言えば、無数の矛盾といんちきを抱え込みながら生きなくてはならない既成の社会に対する、オルタナティブな新しい生き方ではないだろうかと──。

 卑弥呼はしかし、松本コンチータのようなオルタナティブな新しい生き方ではなく、初めての男と結婚して引退するというコンサバティブな生き方を選んだ。地元の男と結婚したということは、AV出演の過去を覆い隠しようもない。相手の男は銀行員である。元AV女優と結婚するのは相当覚悟のいることだろう。二人がなるべく目立たない生活を望むのも無理はない。
 また、卑弥呼は、結婚資金として、騙し取られた3000万円を取り戻すべく、一度引退したAVに復帰するようなしたたかな女性である。差別を受けることなど覚悟の上だろうし、AV女優であることを卑下していたかもしれないが、少なくとも「既成の生き方に異議申し立てをする」などという青臭い考えでAVに出演していたわけではあるまい。
 彼女が選んだ、元AV女優の銀行員の妻として生きていくという「無数の矛盾といんちきを抱え込みながら生きなくてはならない」生き方は、「うっかりすると不意に背中を突かれるような社会のエッジを歩くということ」よりも、よほど厳しいものではないか。ま、自業自得かもしれないが。
 彼女の幸せを祈る。
 

関連ページ


最終更新時間:2010年10月24日 14時04分28秒