「経済学という教養」のポスト・ヒューマニズム
稲葉振一郎「増補 経済学という教養」を読了。バカの私には難しかった。
補章「経済成長擁護論再び」の最後の節「複数の未来構成」では、地球という有限な系では、いくら資源を有効に活用するといってもいずれは限界がきてしまうという問題と、その解決策として、「大規模な宇宙植民」を「経済的に引き合わない」と否定した後、
物理的なシステムとしての人間それ自体の資源活用の効率を アップするということ、より極端に言えば、より少ない物質・ エネルギー代謝で人間が生きていけるようにする
という考えが、唐突に提示される。
具体的な方法は示されないが、「○○かもしれない」として列挙されるのは、
- 生物学的手法かもしれない
- 遺伝学的アプローチをとるかも
- 機械工学的手法かもしれない
- 記載はないが、銀河鉄道999の機械のカラダのようなイメージか?
- 人間が意識あるソフトウェアとなるかもしれない
- レイ・カーツワイル「ポスト・ヒューマン誕生」
- グレッグ・イーガン「順列都市」 「ディアスポラ」
不確実な未来に対して多様なアプローチを試みる、いまの人類とは 少しばかり異なる性質、様々な身体と精神を備えた人間たちであり、 さらに人間の知識と経験を継承しているが、もはや人間ではない 何者かたち ― それは生物かもしれないし、機械かもしれないし、 ソフトウェアかもしれない ― である。
最初、これはまさに、サイバーパンクにおけるポスト・ヒューマニズムでは!と思ったのですが……。
サイバーパンクにおけるポスト・ヒューマニズムは、人間が自らを改変し、人間であって人間でない、人間を超えた存在へと「進化」していこうとする志向を指す言葉だと思っていたのですが、その起爆剤となっているのは、ちっぽけな地球なんか飛び出していくような、野蛮で野放図なフロンティア・スピリットなのでは。
単純に宇宙を目指すということではなく、地球に縛り付けられ、そこにある資源の使いこなしに汲々とするような人間、そんな人間を超えた存在になることこそが、目指すべきフロンティアであり、そのためにはなんでもありというか、ある意味テクノロジーの暴走を無定見に肯定する危険きわまりない志向が、ポスト・ヒューマニズムなのでは。
それを、人体改変の目的が、限りある資源を効率的に使うためというのは、詰まるところ省エネのためということで、そんなチマチマしたこと言われてもなあと、さみしくなった次第。
身体が錆びるから、という理由で、宇宙船の船室内に空気を満たすのをいやがる「人間」がでてくるのって、「スキズマトリックス」でしたっけ。
私は省エネよりこっちの方がいいなあ。