目黒考二のペンネーム

最終更新時間:2008年05月10日 03時58分24秒

 北上次郎と大森望の対談集「読むのが怖い!帰ってきた書評漫才〜激闘編」の189ページ注釈4に、以下のようにあります。

目黒考二(本の雑誌社顧問)は北上次郎(文芸評論家)の別名。
目黒考二は本の雑誌社の設立メンバーでその経緯は「風雲録」&「血風録」などに詳しい。
ちなみに北上氏はもうひとつの名=藤代三郎(競馬評論家)としても活躍している。

 あれ?他のペンネームは?と思いググってみると、Wikipediaに以下のような記載が。

著書も多く、初めはジャンルごとに違うペンネームを使っていた。
 群 一郎(むれ いちろう) 
 北上 次郎(きたがみ じろう) 
 藤代 三郎(ふじしろ さぶろう) 
など。私小説の目黒考二とミステリー文学評論家の北上次郎、競馬評論家の藤代三郎が主に使われ、
自分でも収拾がつかなくなったため他ペンネームはほぼ使われていない。
そのうち群一郎は、群ようこの作家デビューに伴い、寄贈された。

 「他ペンネームはほぼ使われていない」ってことはないでしょう!
 
 ミデアム出版の「おとなの競馬学」という雑誌に、「鈍色のこころ」という、麻雀と競馬に明け暮れる中年男の哀愁を淡々と描いた小説が連載されていますが、この作者「館六郎」は、その文体から、目黒考二その人ではないかと前々から睨んでいました。

No Item.

 この「鈍色のこころ」、もともとは「別冊近代麻雀」(漫画雑誌ではなく活字雑誌の方)で連載されていたのですが、その休刊にともなって「おとなの競馬学」に連載が引き継がれたもの。ウェイバックマシンにその「別冊近代麻雀」の目次を紹介したページ(文字のエンコードはシフトJISで)を発見したのですが、そこには「鈍色のこころ」藤代三郎の文字が!
 これで、館六郎(=藤代三郎)=目黒考二であることがはっきりしました。
 また、「おとなの競馬学」には、北上次郎が競馬が登場する小説に関するコラムを、藤代三郎が達人の馬券術を紹介するルポを、それぞれ連載しており、なんと執筆陣10名中3名が目黒考二(の別名)というすごいことになっています。
 さらには、「おとなの競馬学」の創刊号から2006年3月刊の16号までは、藤代三郎は競馬場の指定席にまつわるコラムを持っており、馬券術のルポは「榊吾郎」が担当していました。この「榊吾郎」も、ほぼ同じ内容の連載が藤代三郎に引き継がれていることからも、文体からも、目黒考二の別名であることは間違いありません。するとこのころは執筆陣11名中4名が目黒考二という、今以上の目黒考二率だったことになります。
 だからこそ、同じ名前が並ぶのを嫌って、普段あまり使わないペンネームも動員しているのでしょう。
 確かに北上次郎や藤代三郎ほどの活躍はしていませんが、榊吾郎や館六郎もこうしてがんばってるということで。
 
 群一郎、北上次郎、藤代三郎ときて、榊吾郎、館六郎とくると、四郎が気になるのが人情というもの。
 「戒厳令下のチンチロリン」の文庫解説で亀和田武が、目黒考二のマニアックなこだわりとして、エッチな話を書くときは群一郎、冒険小説のことを書くときは北上次郎、競馬のことを書くときは藤代三郎……と、書く内容に応じてペンネームの数字を変えていくという逸話を披露していた(もうエッチな話は書かないからという理由で群一郎を群ようこにゆずったはず)のですが、本が手元になく、細かいことが確認できません。九郎まで考えてあったというペンネームのすべてが記されていたわけではなかったと思うのですが、確かそこには、ナントカ四郎という名前も書いてあったような気が……。

 しかし、まあ、こういうのは、「戒厳令下のチンチロリン」の主人公が有馬記念のグリーングラスの勝ち方を確認しないのと同様、わからないままにしておくというのも風情があっていいのかも。