日記/2010-8-5
Mとの共通項
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愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記の「10万人の宮崎勤」発言は都市伝説なのか(車輪の再再発明)を読んで、久しぶりに「とり・みきのしりとり物語」を読み返してみた。
上記のページを読んでいただければわかるように、ここで言う「10万人の宮崎勤」発言とは、連続幼女誘拐殺人事件の犯人として宮崎勤が逮捕された直後に開催されたコミックマーケットについて、マスコミが「ここに10万人の宮崎勤がいる」と言ったか書いたかしたとされる、その発言のこと。掲示板でこの「10万人」発言について、とり・みきが漫画に書いてた、という人が現れ、それに対して別の人が、「いや、現物は知らないんだが、ゆうきまさみがはてしない物語で『とりさんに全部言われた!!』と叫んでいるのを読んだので」と無責任に挙げた書名が(漫画じゃなくてエッセイ集の)「とり・みきのしりとり物語」である、というわけ。
すでにとり・みき本人からの回答によって、彼の漫画の中には「10万人」発言をネタにしたものはないということが判明しており、当然ながらこの「とり・みきのしりとり物語」にもこの発言についての言及はない。ただ、アニメ雑誌での連載をまとめた同書に収められているコラム3本(月刊誌での連載で1989年10月号から12月号までの3ヶ月間)にわたって宮崎事件が取り上げられており、そこではマスコミ批判の後、返す刀で自分自身も含めたアニメファンに対する批判が展開されている。
我々もまた「識者」やマスコミの連中と同じあやまちを犯してはいないか、ということである。
ほんとうにMと我々は違う人間なのか。 前々回に私は「程度の差」ということを書いたが、Mと私の明確な「差」なんて、考えてみれば実際に殺人を犯したか、そうでないか、という一点だけだ。むしろ共通項の方が多い。
これだけ多くの人がこの事件に関心を持ち、なおかつ口をそろえて彼との差別化をはかろうとするのは、実はみんなMに自分の姿の一部を見てしまったからだと思う。人は皆、それが自分でなかったことを安心したいため、ことさら差異の部分だけを「理解できない」と強調するのだ。 自分も多少は持っている、しかし実際は理性やら社会倫理やらで抑えつけられているある部分を、たがが外れて堂々とやってしまった人間がいる。そのことに驚き、(言葉が不適当かもしれないが)嫉妬し、かつ、そういう反社会的な行為を犯した者が自分でないことを確認し、安心する。だからこそ攻撃の度合いも、よりひどくなる。
Mとの差異をやっきになって見つけるよりは、むしろ自分と同じ部分、共通点を探すほうが、より今回の事件や世の中の仕組みが見えてくると思うのだが、どうだろうか。
ここまで、同書の「世間の鬼」と題されたコラムから適宜引用したわけだが、当時まさにこのとおりのことを友人に言われた自分が「いや、俺は宮崎とは違う」と激しく反発したことをよく覚えている。今思えば、痛いところを突かれた、という感じだったのだろう。
ちなみに、同書の別のコラム「すぐには言えない」で、とり・みきは以下のように述べている。
現在、私はコメント及びインタヴューに関しては、それが電話による場合はほとんどお断りしている。まだそういう仕事に慣れていないころに不快な思いをしたことが何度かあったからだ。 まず第一に、コメントを求められる対象内容が、自分が語る資格も立場もない、ときに興味すらまったくわかない分野であるケースが大半だということだ(にもかかわらず相手はしつこく回答をもらおうとねばる)。
第二に、それが記事になったときに、こちらの喋ったことがそのまま正確に掲載されることは皆無に近いことがわかっているからだ。 喋ったことのほんの一部が切り繋ぎされ、さらによりオーバーな表現に変えられて「とり・みきの意見」として載ってしまう。ときにはこちらの主旨とまるで反対の意見になっていることさえある。
好きなように部分引用を切り繋げてすいません。
でも、まあ、描いてもいない漫画を描いたことにされるよりは幾分マシなんじゃないかと勝手に思ってるのだが……。
追記
愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記の「とり・みき『とり・みきのしりとり物語』で言及されている「宮崎勤事件」を引用してみる」に、雑誌連載3ヶ月分のコラムが丸ごと引用されている。参考まで。